折田先生 «« »»Mechanical Fairly Tale

right.gif 再生美学

管野沖彦

ボクの尊敬するオーディオ評論家菅野沖彦のアーカイブを発見。本人許可を取っているらしく、書籍とインタビューがフルで読めます。
 実は菅野氏の唱えた「レコード演奏家論(レコードの再生は受動的ではなく、演奏のように能動的に行うべきという考え)」という思想に、ボクはかなり影響を受けてやす。"再生美学"という哲学は現代のDJカルチャーにもモロ通じます。

長いですが、以下に金言をピックしておきやす。長岡鉄雄とはまた違ったロマン溢れる表現力を堪能して下さい。これ読めば何故ボクが、オーディオに労力をかけているのか少しは理解しえもらえるかも。マヂで鳥肌テキストの数々なんで、音楽に興味のある人は、是非じっくり読んでみて下さい。

『オーディオは、技術と芸術の接点に咲く花である』

『道具はいわずもがな全て手段として使われるものであるが、その道具への関心が強いということは、無関心よりもはるかによいし、文化的であり文明的でもある。いつのまにか、目的を見失って道具だけが一人歩きをし始めるという姿が批判されるわけだが、そう批判する人達のほとんどが、道具に無関心過ぎたり、道具になんらかのコンプレックスをもっている場合が多いようである。
 そういう人達よりも、たとえ、目的を見失っていても、見誤っていても、道具に関心が強く、それとの接触に喜びを見出している人達のほうが僕は好きである。前者は批判し笑っているだけで何も見出すことは出来ないが、後者は、前者には決して見えない世界を見出しているからである。』

『レコード音楽とオーディオの諸問題についてあらためて考え直した結果、「録音は再生によってのみ完結する」というごく当たり前の命題の中に、再生の自由と責任の大きな意味と、レコード音楽のメディア・アートとしての特質を明確に認識するに到ったのである。』

『口を動かして歌ったり、手を動かして楽器を奏でたりこそしないけれど、心は明らかに音楽行為に伴っているのが、音楽を聴くということだ。だから、時には、あるいは人によっては、身体も動かすことになる。そして、たとえ、不十分な情報しか再生されなくても、ひとたび、こちらの心と頭が音楽的に始動を開始すると、もう音楽はスピーカーのものではなく自分のものになる。頭と心が音楽し始める。やがて、そこで奏でられ、進行する音楽と、そういう状態になっている人の頭と心で進行する音楽が、ぴったりと一致した時は、まさに共鳴、共感である。さらに、それが、自己以上の境地に引っ張られ高められていくと感動の境地に至る。こうした音楽の聴ける状態に持っていくことが大前提であって、それが音楽を聴く時の集中というものであろう。』

『僕にとっては、どんな音であれ、こちらの心の動く演奏でなければ音をよくする目的が見出せないのです。どう音をよくすればいいかもわからないし、よくなったか、悪くなったかもわからない……僕の感覚と情緒が眠ったままですから……。これは少々極端ないい方で、僕もオーディオ・マニアですから、周波数帯域が広いとか、凹凸がないとか、ダイナミック・レンジが広いとか、ひずみが少ない……などの判断は出来ますが、でも、これは知的判断であって感性的、情緒的判断という面は希薄ですよね。それだったら、今の水準でも測定器のほうが正確でしょう』

『コンサート・ホールの設計に例をとってみても、その設計値の基準は、過去、多くの人々が美しい響きだといったホールの音響的な測定値に基いているのであって、理論を根拠としているわけではない。統計的処理である。だから、闇雲に建てるよりはよいかもしれないが、演奏家や聴衆が駄目だ、嫌いだといったら一巻の終りである。ましてや、そこで演奏される音楽的内容や、表現手の意図となると複雑を極める。多目的ホールが一つとして満足すべきものがないのを見ても、それが理解できる。
 リスニング・ルームもそうだ。理論的には、録音された情報を過不足なく音だけに変える目的に一番叶っているのは無響室である。適度な残響が好ましい……などというのは理論ではない。反射を含め、コンサート・ホールの状態に近いリスニング・ルームなどというのは、間接音が重複するわけだから、収録された情報の忠実な再生にはなり得ないことは明白である。
 しかし、現実は無響室で音楽が美しく再生された試しもないし、そこでの演奏はさらに悲惨である。これは、レコードとその録音再生システムが技術的に未完成であることを意味している。つまり、マイクロフォン以前と再生スピーカー以後の両空間を理論通りに規定したとすると、今のシステムのあり方とレベルでは音楽が楽しめないという事実である。』

『音というものは、食べものと同じように、この嗜好性が大変強い。感性の洗練性と嗜好性の、横糸縦糸が綾なす複雑微妙な美の世界、これがオーディオを、ことのほか楽しみの深いものにしていると同時に、複雑怪奇なものにしているのである。・知性を縦糸、感性を横糸といってしまうほど単純にはいかないのである。その上、さらに加わるのが、道具と使い手との関係のあり方である。』

『オーディオの世界はヴィジュアルを伴わないところに独自性があると僕は思っている。音という抽象だけの世界であるところに多くの本質的な特長がある。本当にオーディオを愛し、体験した人ならばこの事はいわれなくても解っているはずである。むしろ、オーディオの真価は、有限画面の具象によって、かき消される質のものだといいたいくらいだ。』

『長年にわたり原音の忠実な記録再生という技術的目標だけを価値判断として発展し続け、機器やテクノロジーに支配され続けてきたことが、旧態然とした観念の続いた理由の一つであろう。
 しかし、こうした問題意識の遅れの底辺にある根本的原因は、一般の人々の音に対する聴覚的な美感覚の問題だろう。』

『バランスを犠牲にしてまで鮮度を保つことだけに気をとられるのは間違いだと思います。レコード音楽というのは、所詮、一つの仕掛けであって、矛盾と妥協で出来上っていると思うんです。録音から再生までのトータルで見て、全体を考えながら、いい意味での妥協をしていかなければまとまらない仕掛けたと思います。技術的にあるポイントだけを突込むのは研究としては大切だし、意味もあると思いますが、音楽表現ではマイナスのことが多いようですよ』

『まず、レコード以前に完成されている音楽、その典型がクラシック音楽だと思いますが、その実際のコンサートは矢張り、オーディオにとっての一つのリファレンスだと思うのです。それから、自分が馴染みのある楽器の音や、人の声の音色感もリファレンスですね。ただ、それと単純に比較するというのは研究の手法としてはともかく、イリュージョンという人間の聴覚と知覚の上に成立っているオーディオ・システムの機能と必らずしも一致するものではないと思うんです。ですから、そうしたリファレンスたり得る音や音楽に接することで得られた自分のイメージとの比較というのがとても大切だと思っています。そういう、いわば現象のイメージと、音楽という人間表現のもつ、こちらの心象への働きかけの大きさとか強さといったものの総合が、僕のいう音楽表現上という意味になると思います』

『ステージのコンサートで、1000人の聴衆が同時に聴く音楽と音響には、千人千通りの感受性による知的感性的理解があると思われる。もちろん、それら個人差による違いを確認する方法はないが、もし仮に、各人の頭の中に響いた音と音楽を正確に再表現してもらうことが可能だとすれば、1000通りの音と音楽が鳴り響くはずである。』

『ありとあらゆる固有現象の中から、自分の美意識を喚起させる何物かを発見した人がオーディオ・マニアになる。それが出来ない人であるか、または、そこまで関心を持たない人はオーディオのアウトサイダーだ。』

『音楽の表現手と、その聴き手との芸術的メッセージのコミュニケーションの世界は、物理的な有限性に支配されるようなものではないのである。
 オーディオは、しかし、その有限性故に、人の欲求を喚起する。その有限性は制限ではなくて限界である。限界を知るからこそ、人は、より絶対的な真実に憧れるのであり、近づこうとするのである。この物理的な限界と、それ故に、それを越えて向う側を知ろうとする人間との関係にオーディオの独自性と、その存在の意味があるように思えるのだ。そして、これもオーディオのメカニズムと、その世界がもつ広義の固有現象に関連してくるのである。写真や映画も、それぞれの固有現象の上に築かれた芸術分野であろう。敷衍すれば、全ての芸術の独自性は、この固有現象の違いであって、それが同時に限界ともいえるのだ。限界故に、人をして、その向う側の真実なるものを希求させる。天才の作品の無限性、その鑑賞者の無常の至福はそこから生れる。
 人の命にも限りがある。制限がある。だからこそ限界をしる。その向うのものに憧れる。有限相対を越えて無限絶対への憧れである。それが芸術であり、神であろう。芸術は永遠、神は絶対、といわれる所以であろう。かといって、現実を無視したり、逃避したりすることは許されない。レコード音楽の真の愛好者にとってオーディオは、この人生の現実のようなものではないだろうか。それだけが目的では淋しいし、出来れば現実もロマンティックにいきたいものだと僕は思う。』

『リスナーとは能動的であるべきだ。』

■ん〜、改めて読み返してみても素晴らしいですね。

人間が他の動物と最も違う点は美意識の自覚で、技術や知識はこれを具現化していくものだとボクは考えています。文化とは美意識が具現化した1つの形。逆に言えば美意識のない、技術や知識には価値はありません。
 例えば、技術があがりコストも下がっても、巷に流れる音質はこの10年だけを見ても明らかに悪くなってやす。これは美意識なき技術が、利便性と効率性を求めた結果の1つです。mp3カルチャーなんて勘弁でしょ。
 ボクにとっての美意識とは「向こう側への憧れ」です。権威や偏見といった束縛から解放された地点に真の人間的な愛が存在するはずで、この愛を探求する姿勢がアンダーグラウンドなのです。これは、決してスピリチュアリズムやユートピア論でお茶を濁しているわけではなく、文字通り地に足のついた概念です。

「オーディオは、技術と芸術の接点に咲く花である」という菅野氏の言葉を初めて読んだ時、長年のモヤモヤが一気晴れて感動したことを覚えてます。ピュアオーディオという限られたフィールドに向けた発言ですが、人間の根源的な美意識と技術のあり方をストレートに表した素晴らしいテキストです。

近代の音楽は複製と再生を前提に作られているので、再生装置も"音楽"に含まれるという考え方は、若い人の方が共感しやすいはず。アーティストに最大限敬意を払いつつ、能動的に聴くことでリスナーも進化していく。ボクにとってDJという人種は、0から1を作り出すようなクリエイターやアーティストではなく、美意識に基づいて技術や知識を駆使し1を10にするような職人です。

このHPでは、よくオーディオ機材を紹介してやすが、ボク自身はハーコーなピュアヲタではないので中には間違ってる記述や主観もあるはずです。が、上のテキストにもある通り、道具に対して関心を持つ姿勢こそが文化的な行動であって、本質はその正誤ではないんです。大事なのは、「そこに意志があるか」です。
 例えば、今のドイツを筆頭にしたヨーロッパ盤の音の良さは、"史上最高音質のメディア"と言っても過言じゃないわけですが、だからといって90年代のStrictly Rhythmの割れたハイハットとか、不純物は入りまくりのTrax盤の魅力がなくなったのかと言えばそうではないわけで。ボクはカラーバイナルの音とか嫌いじゃないですし。
 針もそう。上から下まで出ればいいってもんじゃないし、解像度が高過ぎて艶やコシがなくなることだってある。Night Clubはスタンダードな針だけど、ボクはあの音は嫌いです。というように、人の感覚なんて千差万別であって、正解を探すのではなく自分の意志で進むことが、DJやオーディオといった再生文化の醍醐味す。


能動的に聴く。
美意識を探求する。
再生とは、文化的でアンダーグラウンドな行為なのです。

コメント:

パンチライン多し!
  
既知かもしれませんが
北海道・新冠町
「レ・コード館」での体験思い出した。


動物との違いってところは、
「真・善・美・聖」って考えてmass

>yokoji
おひさ〜。

http://www.niikappu.jp/record/
これかな?知らんかったっす。何する場所かさっぱりわからんのだけど、試聴とかできるの?良く逝ったね。

この文章、素晴らしいね。

『レ・コード』という言葉は「レ(Re=くり返す/戻る)」と、「コード(Cord=心[ラテン語])」を組み合わせたもの。つまり『レ・コード』は「心の記憶を呼びさます」、「心に帰る」という大きな意味の広がりを持っています。それを愛する全ての人々の”かけがえのない音”を刻み込んだ『音の遺伝子』なのです。

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