■オーディオは特権階級の趣味か?
オーディオを衰退させた原因の一つに、資金力と優れた耳を持った特権階級が楽しむ趣味であるという風潮があります。これは明らかな間違いです。
資金力があれば選択肢が増えるのは事実ですが、費用と音質は日本住宅クラスの限られた環境では必ずしも正比例しません。例えばゴミ置き場で拾ったアンプとスピーカーをチューニングして、数十万円の機材に勝る音を鳴らしているような人をボクは知っています。
機材や資金というのは一部条件に過ぎず、オーディオの本質とは、仮説と検証を通じて内的な美意識を洗練していく過程にあります。僕の敬愛する菅野沖彦は、この作業を「芸術と技術の間に咲く花」と形容しています。花の美しさは正確に定義できない一方、美しさを判断する価値観は必ず個々に存在すると。資金力と根源的な美意識は関係ないので、与えられた条件の中で自分なりの美意識を実現する工程がオーディオなのだと。菅野沖彦はこうした美意識を持った能動的なリスナーを「レコード演奏家」と定義しましたが、ボクはDJもこの部類に入ると捉えてます。
参考:
菅野沖彦/音の素描 全文
菅野沖彦/オーディオ羅針盤 全文
菅野沖彦/レコード演奏家論 抜粋
■オーディオ=名機の所有ではない
つまり名機をいくら所有しても、その選択に意志や美意識がなければオーディオとは呼べません。昔のオーディオ雑誌では評論家が、読者の使用機材をもとに性格判断や人生相談など占い師のようなことを平然とやってますが、機材リストを見れば人となりがわかるのは、あながち嘘ではないかと。高価な機材を持つ喜びは宝飾品と似てるので悪いことではないのですが、オーディオ本来の喜びとは実は別物です。
■音質の判断は誰でもできる
優れた耳が必要というのも間違いで、音質の判断は自転車と同レベルの難易度です。自転車は練習次第で大半の人が乗ることができ、覚えれば忘れることはありません。同様に音の違いを認識するのは実は大半の人ができることで、一度認識すればあとは自然に理解できるようになります(DTMやってると、ゴーストノートとか認識できるようになるのと同じ)。コンポのような安い機材だろうがネット音源でも多少の音質の違いは認識できるはずなのですが、高い機材や良い耳がないと音の差はないというバイアスが邪魔するため、オーディオは敷居が高いと未だに勘違いされる理由です。
つまり資金力とか耳の良さはオーディオにはあまり関係なくて、美意識に向かい合う姿勢というのが大前提。オーディオ道2へ続きます。