■Mark Jacobson(リドリースコットが監督したAmerican Gangsterの原作者)の小説デビュー作。以降の作品はジャーナリストのバックグラウンドを活かした作品が多いみたいだけど、これだけが異色のSF。ピンチョンのヴァインランド直系とも言えるポップカルチャーと文学を痛快にミックスしてやす。
ストーリーは原爆の影響で9年間昏睡していた少年コモドと被爆によって巨大化したトカゲGojiroが、自らのアイデンティティーを探っていくというドタバタなお話。Gojiroは作中ではまさにゴジラで巨大トカゲであると同時に世界的な映画スターとして描かれて、憎き原爆が自らの自我を生んだ母でもあるという矛盾を抱えている。戦争反対テーマで一辺倒に押し切るというわけでは全くないので、今でも面白く読めます。
翻訳はSF好きにはおなじみの黒丸尚で、ニューロマンサーとかで魅せたドライブ感の溢れる文体が世界観にマッチしてる。ちなみに黒丸氏はこの翻訳の半ばで倒れたらしく、遺作になるみたい(後半は白石氏がその訳を引き継いでる)。
■気に入ったパンチラインを抜粋。Gojiroが自我探索について語るシーン。スタイルと真理の狭間に潜む矛盾についてミュータント爬虫類が悩むという皮肉。ここはまだ黒丸尚による訳(注釈はボクが入れました)。
『本は棚に一冊あればいいというのはスペースの節約には大いに貢献するが、どの本にすればいいのか?熱狂に屈するのは果てしなく魅力的な選択肢ではあるが、それによって見た目がわるくなりたくはない。すべてを包含する信条の宗教に参加してみたはいいが、そのあと細かい活字を読んでみたら、ベルボトムのジーンズと絞り染めのTシャツを着るべしなどと書いてあるのはごめんだ。とんでもない、こっちはヒップなトカなんだから、どでかいジレンマになっちまう—信仰と"クール"さをいかに両立させるかという大問題だ。
そこは"クール"の定義しだいだと、ゴジロはかねてから考えていた。厳しさを欠いた虚無主義者となり、薄暗いフォーマイカ(*1)ラウンジのなかでいつまでもおのれの趣味嗜好をおさえこんでおくのもいいし、かわいい靴を前衛の静けき永続性のなかにセメントで固めておくのもわるくない。しかし、それでどうなる?流行のなんとか、流行のかんとか—近ごろでは、それも売り物だ。チェックアウト・カウンターでお受け取り、ワンサイズでどなたにも。こういったからといって、ゴジロが軽薄さを慎むということでもないし、クリフォード・ブラウン(*2)をきらう人間より、このトランぺッターを好む人間のほうが本質的に価値がある個人だと思っているという意味でもない。ヒップというのは絶え間なくまわりつづけるローロデックス(*3)だ—うわべのもつ力を軽視することはできない。しかし、それを金科玉条にされても困る。深いところに行く必要があるのだから。
もとめよ。見出せ。受けいれよ。信ぜよ。それがヒップなトカの養生法だ。しかしそこで—"信ぜよ"の部分で、プロセスが崩壊する—さいごの一歩のところで。ゴジロのむかしからのモットーは、"クールたれ、ただしクールエイドは飲むな"(*4)だ。』
*1 イームズの家具とかに代表されるようなメラミン樹脂の合成素材で、自由度が高く安価で大量生産できることからデザイナーに愛された。今だと電車のホームにある椅子とか。
*2 Clifford Brown
1950年代に活躍したトランぺッター。
*4 原文を確認すると"Be Cool, don't drink the kool aid"となってる。何故にクールエイド?と思い調べてみると、1978年に中南米ガイアナでPeoples Templeという宗教団体の信者がジュースに毒を入れて914人が集団自殺を図った事件があるそうな。それが転じて、「drink a kool aid」で「盲信する」という俗語になるそう。実際に使われたジュースはFlavor Aidというブランドだったらしいけど、Kool-Aidの方がメジャーだったので誤ったまま定着した模様)。
※ちなみに、ゴジラ・シリーズが終幕を迎えたのは原爆投下五十周年。